山田太一について
1934年東京浅草生まれ。9歳から18歳を湯河原で過ごす。小田原高等学校・早稲田大学卒業後、松竹(大船撮影所)にて助監督として木下惠介監督に師事。1965年に脚本家として独立。多くのテレビドラマや小説、舞台を手掛けた。主なテレビドラマ作品に『男たちの旅路』『岸辺のアルバム』『獅子の時代』『日本の面影』『ふぞろいの林檎たち』、小説に『異人たちとの夏』、戯曲に『ラヴ』などがある。向田邦子賞、山本周五郎賞、小林秀雄賞をはじめ、芸術選奨文部科学大臣賞、菊池寛賞、毎日芸術賞、朝日賞ほか多数受賞。2023年11月逝去。
1934年浅草
山田太一は、1934年(昭和9)浅草の大衆食堂「三昭」の8人兄弟(6男2女)の6男として生まれた。 太一の父・逸三は、愛知県の農村から家出同然で上京。屋台をひくことから始め、 映画館や芝居小屋、寄席が建ち並ぶ六区通りの先に店を持った。やがて、10余人の使用人をつかうほど 食堂は繁盛し、千葉に別荘をもつほどであった。が、長男と3男が病死し、 逸三は一番下の男子であった太一には丈夫であるようにと強く願った。
浅草国際劇場前の広場は、太一の遊び場で、幼い頃から庶民的なエンタメの世界が太一の眼前に広がっていた。
太平洋戦争末期、小学校3年が終わる1944年3月、防空法によって空襲の類焼を防ぐため、 店と住まいが取り壊され、わずかな土地をたよって、一家は神奈川県湯河原町に強制疎開を余儀なくされた。
1944年湯河原
当時の湯河原は、温泉場としての賑わいはなく、傷病兵の湯治場であった。 ようやく手に入れた店を手放した父の嘆きは大きかった。が、逸三は、東京の指圧学校に通って免許をとり、 指圧師となって旅館に通い、太一たちを養った。
翌1945年1月、食糧難と引越しの疲れで、母・りんが50歳で亡くなり、1947年、 5男も肺結核で亡くなり、復員した次男と姉も家をでて、家は、父と太一と妹の3人になった。
中学3年のころ、逸三は、子連れの職業軍人の未亡人と再婚する。しかし、下町かたぎの父と山の手の継母とは ケンカが絶えず、やがて美容院を始めた継母は忙しく、食事の仕度の一切を太一に任され、 薪でご飯を炊き、おかずをつくって、自分と妹の弁当まで太一がつくった。 そんな中で出会った国語のS先生は、芥川龍之介やパスカルを惜しげもなく貸してくれ、 太一を文学の世界に目覚めさせた。
一方で、湯河原の川と海と山は太一のキラキラした子供時代の舞台でもあった。 家の横に流れる千歳川での川遊び、“赤ふん”で潜りにいった吉浜海岸、下駄ばきでのぼった箱根の十国峠。
1950年小田原高等学校に進学、あだなは「4時8分」。授業が終わるや夕飯の支度の為、 百段坂を駆け下り、小田原発4時8分の東海道線下り電車に飛び乗る毎日だったからだ。
「大学に出す余裕はない」と継母に言われ、小田高時代は文芸部に入ったものの、 息をひそめるように過ごしていた。授業にも身が入らず、好きな本(三島由紀夫、小林秀雄、萩原朔太郎……) を読み、映画に浸った。はじめて脚本に触れたのは、湯河原の小さな映画館で観た黒澤明『野良犬』である。
高校2年の終わり、継母の大反対を押し切って父がパチンコ屋を始めると、 太一には家事に加え、パチンコ台の裏で玉をつついたり、玉を洗ったり、と新たな仕事が加わった。 結局、父と継母は高校2年の時に離婚し、継母が反対したパチンコ屋が大当たりして、 太一の将来が大きく変わった。
家の為に箱根登山鉄道か富士フィルムの工場に就職するつもりが、高校3年の後半になっていきなり逸三から 「大学に行っていいぞ」と言われ、急に大学に進学できることになったのだ。
山田太一は、「マイナスにこそ、その人の魅力がある」と語っていた。 戦争、母と兄たちの死、父の失望と奮闘、再婚した両親の不和……。 太一の少年期はマイナスな体験も多かった。しかし、その中でこそ読書や映画を糧に憧れの世界を想像し、 また市井の人々の機微を丁寧に心に刻み、ただならぬ書き手としての資質を温め、 山田太一を形づくったと言える。
1954年早稲田
中学から高校にかけて、酒に酔った逸三から繰り言のように聞かされた言葉がある。
「いいか、世間てもんはな、お前になんの情けも関心もない。 いいような顔をする奴も腹の中は冷たいもんだ。……ほっとなんかすりゃ辛いことになる」
故郷の農村から裸一貫で上京して生き抜いてきた父の実感であったのだろう。 一生の戒めの言葉として太一は胸深くに刻んだ。
しかし、一浪して早稲田大学に合格した時の、逸三の喜びようは格別だった。 1954年(昭和29)早稲田大学教育学部国語国文学科に入学。 太一が「誰も知らないだろう」と得意げにある詩を諳んじたところ、 すかさず次の行を暗唱してみせた男がいた。 のちの「言葉の錬金術師」と呼ばれた歌人で演出家の寺山修司である。 太一が『文芸』の学生小説コンクールで佳作に入選すれば、寺山は『短歌研究』で特選に選ばれる。 偶然にも文学を志すふたつの才能がクラスメイトとなり、「最も話が合う、油断ならない友」となった。
大学2年で、寺山がネフローゼで入院してからは、太一は大学の行き帰りに寺山を病室に見舞い、 文学を哲学を映画を政治を恋を語り合い、それでも語りきれずにふたりは数百通の書簡を交換して切磋琢磨した。
1958年松竹・大船撮影所
大学を卒業したら辺地の国語教師をしながら(希望任地は「八丈島」)小説を書こう、と考えていたが、 試験を受け損ない、1958年(昭和33年)「松竹大船撮影所・演出部」に採用され助監督となる。
当時の松竹は、小津安二郎と木下惠介が二大巨匠であった。 太一は巨匠の組を好まなかったが、先輩の吉田喜重のすすめで木下惠介監督の下についた。 以来、木下組で『永遠の人』から『香華』まで助監督を務める。
特に精緻な脚本で知られる木下の口述筆記を担当したことは、太一のその後を決定づけた。 1965年、先に映画からテレビの世界に移った木下惠介に続いて松竹を退社。 木下がつくった木下プロダクションの脚本スタッフとなり、フリーの脚本家としてスタートを切る。
放送ライブラリー「山田太一・上映展示会」展示パネルより引用