山田太一が残した言葉

山田太一の直筆原稿

山田太一が生涯を通して紡いだ言葉やセリフは、数十年の時を経た今もなお古びれることなく、社会や人間の本質を貫き、言い当てています。
ここでは、数多ある著作や発言録の中から、その一部を紹介します。

片隅の平凡な人生より、人の目をひく波乱の人生が尊い、とどうして言えるだろう。
私たちは、ひとりの女の、平凡だが、ひたすら生き抜いた半生をとおして、この世の多くの平凡な人生の激しさとその重さを語ろうと思う。

『藍より青く』第一話 冒頭ナレーションより

テレビというのは、大変な影響力で、時代の文化を担っているわけだけど、実際に権力を持っている人たちの中で、その文化的責任を感じている人が果たして何人いるだろうかと思ってしまう(中略)視聴率に比例して給料をもらうわけじゃない。だったら少しくらい損しても、みんなでやりたいことをやってみようとか、これは俺が面白いと思うからどうしてもやりたいとか、そういう気概があったっていいと思うのに、最近はそういう作り手がほとんどいなくなってしまった。

『広告批評』1992年6月号より

(『岸辺のアルバム』について)現実の家族は、さまざまな問題をかかえて曖昧なまま、時にはカッとしても自分を押さえたり、酒をのんで悪口をいってみたり、ある時は思いがけなく愛情を感じたり、そんなこんなで、なんとか崩壊をくいとめようとして日々を送っているはずです。少なくとも問題を抱えた家庭の多くの場合が、そうだと思う。それは「甘い」ことでしょうか? 私はむしろその方が「辛い」ことだと思う。登場人物それぞれが自分を少しずつ押さえ、曖昧なまま微笑を浮かべ崩壊をくい止めている姿の方が、崩壊して一人一人バラバラに生きている結果より私にははるかにリアリティを感じるし、徹底性もあると思う。

『昼下がりの悪魔』より

日本が大国になるプロセスの中で、それまでの長い歴史の中で形成してきた感受性がずたずたになった部分がいろいろあると思うのです。それをもう一度見ていく、確認していく。どういうものを失ってしまったのか。どういうものを切り捨てたのか。闇の部分、不可解なもの、不合理なもの、人間が世界の主役ではなくて、さらに大いなるものがあるというような心性とか、そういう考え方が明治以降は抑圧されて、つぶされてしまってきた。それが今の時代になって、教育問題でも、親と子の問題、夫婦の問題、社会問題でもゆがみとしてどんどん表れてきているんではないかと思います。

『逃げていく街』より

私は少し自分が嫌いな人間が好きである。
あるがままの自分でなにが悪い? とひらき直ったような人は苦手で、自分の欠点を知っていて、なるべく隠そうと努め、出来たらあるがままより少しはましになりたいと考えているような人が、どちらかといえば好きである。

『逃げていく街』より

本当に光を当てるべき老人は、別にいるのではないか。または、光の角度がちがうのではないか。称揚すべきは、年より若い老人ではなく、その年齢その年齢の輝きを無理なく手に入れている老人なのではないか。
次々と変化する現実に、たちまちいきいき適応して行く人々に、その軽薄さ、その空しさを気づかせるような老人なのではないか。いきいきしていては気がつかない季節のかすかな変化、人の心のゆらぎ、弱くて小さなものの美しさ、そういうものを気づかせてくれる老人なのではないか。

『誰かへの手紙のように』より

他者を理解するということは、身も蓋もなくいえば「他人の身になる」ということです。言葉は簡単ですが、至難なことです。ヒトラーの身になる。ヒトラーに魅かれてしまったドイツの人びとの身になる。仮にそんなことができたとすれば、単純な否定などできるわけがありません。

『ふぞろいの林檎たちへ』より
山田太一による木のイラスト。絵:山田太一

ひとの幸福を自分の幸福感で裁かない方がいい。

『夕暮れの時間に』より

綺麗事が、どんどん増えている。「人間そんなわけにいかないだろ」と思うようなことでも、不正に光が当たると、一斉にふくろ叩きにする。自分がその立場だったらどうか、という基本的な想像力を持とうとしない。自分のことは頭から棚に上げている。

『幸福になれない理由』より

僕は実際に犯罪をおかす人より、犯罪をおかす寸前でとどまる人間を描きたい。そうした人間が、実は内面的にもっとも屈折しているし、複雑だと思うんです。だから、社会から本当に逸脱した人間も登場させないかわりに、エリート人間を描くこともない。生まれた時から順風満帆できた人も、僕にはつまらなく感じるんです。一見、平凡な生活を送っているようだけど、内面には計り知れないものがなるべく多く詰まっている人間。そうした人間たちの心の絡み合いを表現していくのが、僕の仕事だと思っているんですね。

『Cefi』1990年5月1日発行号より

チャエフスキーは、こんなことをいっていた。「ある男が、なぜ殺人を犯すかということより、なぜ結婚するかということのほうに、はるかに刺戟的なドラマがある」(チャエフスキー劇作集)この言葉に私は魅惑された。その通りだと思った。犯罪物は書くまいと思った。以後一作も書いていないが、これはまあこのジャンルには、私よりうまいライターが沢山いるせいもあるから、あまり威張れないけれど。

『夕暮れの時間に』より

私たちの認識が、言語化できる領域にとどまらず、「いわくいいがたい」曖昧で複雑で多層な現実を「いわくいいがたい」まま言語化せずに、まるごと意識化出来る可能性を持つのが映像の世界である。しかし、映像をそのようなものとして遇する作品は、まことに少ない。多くの日本映画、多くのテレビドラマでは、ステレオタイプ化して、ほとんど私たちをゆさぶる力を失っている。

『逃げていく街』より

社会を本当に豊かにするのは、高度経済成長のリーダーか、そこからこぼれ落ちた人々か、分かったものではないと思うのである。(中略)切り捨てられた人々の中に、社会の最も良質な部分がないとどうしていえるのか。

『逃げていく街』より

(『ふぞろいの林檎たち』について)セールスマンだとか三流大学、三流会社だとか、そういう視点で、ひとの人生を要約することに反撥して書きはじめたのが、この作品であった。

『逃げていく街』より

あえていえば、時代の流れが激しく太くなった時にはとるに足らないものになって行く小さな本当、小さな矛盾、小さな誤解、小さな深淵、小さな善意、小さな夢、小さな物語は、まだ日本では書く余地があると思うから(ないのかな?)急いで未来に適応しないで、アナクロニズムを生きるのも積極的なことなのではないか、などと思っている。

『夕暮れの時間に』より

いま多くの日本人が何より目を向けるべきは人間の「生きるかなしみ」であると思っている。人間のはかなさ、無力を知ることだという気がしている。

『誰かへの手紙のように』より

自分もその状況にいたら、同じことをしてしまうかもしれないなあ」という部分を、いろいろかかえこんでの否定は、つまりは自己否定を絶えずふくむわけですから、歯切れのいい全否定からは遠くなります。しかし、そういう否定意外に、真に力のある否定は、多分ないでしょう。

『ふぞろいの林檎たちへ』より
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